スペインはヨーロッパの国の中でも特にユニークな歴史を持つ国です。
スペインのあるイベリア半島には古代から人が生活していたのですが、スペインがカトリック王によって統一されたのは15世紀のことでさらに今のような体制になったのは1978年とわずか40年ほど前のことなんですよ。
これからスペインに長く滞在しようと考えている方は特に、スペインの歴史を知ることがスペインの人や文化を理解するきっかけになるかもしれません。
ここでは古代から現在までのとても複雑なスペインの歴史をできるだけわかりやすく解説していきますね。
スペインの歴史
それではスペインの歴史を古代から順に見ていきましょう。
先史時代のスペイン
スペインに残る遺跡やそこから出土した遺物によると、120万年前には今のスペインがあるイベリア半島で人類が生活していたようです。
ただこの頃にいた人たちはわたしたちと同じホモサピエンスではなく、原人と呼ばれる人たちですね。
ホモサピエンスがイベリア半島に入ってきたのは紀元前3万年頃のようです。
スペイン北部のカンタブリア州にあるアルタミラ洞窟には紀元前1万年にクロマニョン人が残したといわれる牛を描いた壁画が残っていて、世界遺産にも指定されていますよ。
古代のスペイン カディス周辺にあったとされる幻の王国タルテッソスとローマ帝国の支配
紀元前1.000年頃イベリア半島には今のスペインやポルトガルのような広範囲を納める大きな国家は存在していませんでした。
ただギリシャ人はこの当時イベリア半島で生活していた人たちのことをイベロスと呼んでいたようです。
ただイベロスがどこかから渡ってきた人たちなのか、またこの地域の原住民だったのかなど詳しいことはあまりわかっていません。
この頃現在のアンダルシア地方、カディス県とウェルバ県の境目にあるグアダルキビル川の河口付近にタルテッソスという王国があったのではないかといわれています。
タルテッソスは王国で錫や銅それに金など金属の貿易で栄えたと言われているのですが、国があった正確な位置やどんな文化を有していたのか等その詳細についてはほとんどわかっていません。
半分神話の中にあるような幻の国といったところでしょうか。
当時のスペイン北部にはバスク人やケルト人が、現在のカタルーニャ地方にはギリシャ人もいたと言われていますよ。
しかし紀元前300年頃イベリア半島は北アフリカの都市国家カタロニアに大部分が征服されることになります。
この時にカタロニアによって建設された都市が今のカルタヘナだとされています。
ただこのカタロニアも紀元前200年には神聖ローマ帝国に滅ぼされ、イベリア半島は神聖ローマ帝国の一部になりました。
この頃のスペインはイスパニアと呼ばれていたんですよ。
そしてイスパニアから4人のローマ皇帝を輩出するなど、帝国の中でも重要な地域であったと言われています。
中世のスペイン① 西ゴート国の成立
5世紀の初頭西ローマ帝国がゲルマン民族に滅ぼされ、イベリア半島全域にゲルマン民族による西ゴード国が建国されました。
この時代の首都は今のトレドに置かれていたといいます。
ゲルマン人の王国ではあるもののイスパニアに移住したゲルマン人はほんの数パーセントほどで、ローマ時代からそこに住んでいたローマ・イスパニア人がほとんどだったと言われています。
西ゴート国は最初はキリスト教のアリウス派を信仰していましたが、後に国民の大部分を占めるローマ・イスパニア人に合わせるようにカトリックを国教にしていますよ。
中世のスペイン② アラブ王朝の支配下に
711年北アフリカからイスラム勢力がイベリア半島に進行し、西ゴート国を滅亡させます。
そしてイスラム勢力はイベリア半島のほぼ全域を征服しアルアンダルスという帝国を築きます。
初めに首都がおかれたのはコルドバで、この時に数万人を収容できる大モスクとして建設されたのが今のメスキータです。
この時期コルドバは隆盛を極めますが、イスラム王朝間の権力争いや北部でカトリック勢力が領土奪還に動き始めたことで情勢が不安定になってきます。
スペイン北部やカタルーニャそれにトレドさらにバレンシアといった重要な都市が次々陥落していったことがきっかけで、1230年にイスラム王はグラナダに遷都しそこでナスル朝を築きます。
このナスル朝の王宮として建てられたのがアルハンブラ宮殿ですよ。
そして1492年とうとうこのグラナダも陥落し、カトリック王がイベリア半島の再征服をなしとげます。
中世のスペイン③ カトリック王のレコンキスタ
イスラム支配の時代をカトリック勢力側からも見ておきたいと思います。
イスラム勢力がイベリア半島に侵入した時に当時の西ゴード国の王は戦死したのですが、スペイン北部に残った勢力により718年にアストゥリアス王国が建国されました。
アストゥリアス王国は後にレオン王国と改名したのち、勢力を南に伸ばしながら11世紀初頭にレオン王国とアラゴン王国それにカスティーリャ王国という3つの国に分裂します。
この当時のイベリア半島にはこの3国以外にもトレド王国やセビリア王国などの小国がひしめき合っていてお互い激しい勢力争いが行われていました。
そして1143年にレオン王国の伯爵が抜け駆けする形でポルトガル王国を建国していますよ。
ただ現在のスペイン領土内ではキリスト教徒とイスラム教徒、キリスト教徒とキリスト教徒で激しい領土争うが繰り広げられ混沌とした状況が続いていました。
1198年に当時のローマ教皇の呼びかけでイベリア半島の小国はイスラム勢力撃退のために一時休戦として、ヨーロッパの外の地域から送られた十字軍とともに本格的にイベリア半島の奪回に乗り出します。
そのため1200年代にはイスラム王朝の領土はグラナダだけになったものの、グラナダを陥落するのに200年程を要しました。
カトリック勢力がイスラム勢力から領土を奪還する戦いをレコンキスタと呼ぶのですが、グラナダが陥落しレコンキスタが完了したのは1492年のことです。
なぜグラナダの歓楽に200年もかかったのかと言うとそれはグラナダの要塞が屈強だっただけでなく、カスティーリャ王国とアラゴン王国が骨肉の権力争いを繰り広げていたのも関係しているでしょう。
ただ最終的にカスティーリャ王国の女王イサベラ1世とアラゴン王国のフェルナンド2世が結婚したことでこの2国が統合され、1479年にスペイン王国が誕生します。
イサベラ1世とフェルナンド2世のことをカトリック両王と呼ぶことがありますよ。
18世紀まで旧カスティーリャ王国領と旧アラゴン王国領で別々の法律が使われていたようなのですが、15世紀になって初めてスペインが一つの領土として統一されたんですね。
1つの国となり勢いづいたスペイン王国はとうとう1492年にグラナダを陥落させます。
カトリックの王が700年以上かけてイスラム教徒から領土を奪還したと言うと感動的な物語に聞こえるかもしれませんね。
ただ7カトリック両王は当時スペインに残っていたユダヤ人やイスラム教徒を宗教の違いを理由に財産を奪って国外に追放したという暗い面も持っているんです。
これはスペインにあったイスラム王朝が他の宗教に比較的寛容だったのでは正反対の対応だったんですよ。
スペインの近世 コロンブスの新大陸発見とスペイン帝国
グラナダが陥落しスペインのカトリック両王が感染に覇権を回復したのと同じ1492年、イサベラ女王の援助を受けて出港したコロンブスがアメリカ大陸を発見します。
この新大陸発見をきっかけにスペインは世界のすべての大陸に植民地を持つ大国となり、この時期のスペインはスペイン帝国と呼ばれるようになりました。
当時公開や貿易で同じく覇権を争っていたポルトガルとトルデシリャス条約を結び新大陸の開拓の優先権を得たスペインは、領土の拡大や銀の採掘を通しどんどん力をつけていきます。
この16世紀から17世紀までの約100年間はスペインが歴史上もっとも繁栄した黄金世紀といわれています。
黄金世紀は植民地の覇権だけでなくエル・グレコやベラスケスといった優れた芸術家が活躍し、セルバンテスが『ドン・キホーテ』を発表したスペインの文化においても非常に重要な時代ですよ。
ただ1588年にスペインの無敵艦隊がイングランドに敗れたことをきっかけにスペインは徐々に衰退していきます。
黄金時代に併合したポルトガルやオランダそれにフランスの一部などといったヨーロッパの領土を次々に失い、海の覇権も新しく台頭したイギリスやフランスなどに押されて後退していきました。
しかもスペインの黄金時代を支えたハプスブルク王朝が断絶し新しくブルボン王朝を迎えたことで、再び旧カスティーリャ王国派閥と旧アラゴン王国派閥の間で王位継承争も勃発します。
ただ海外での影響力は弱まったこの時期でも、この頃はまだ国内の産業は順調に成長していっていたようです。
スペインの近代 ナポレオンの侵略と独立戦争そしてアメリカ大陸の国の独立
1808年フランス皇帝ナポレオンがスペイン王のカルロス4世とその子供のフェルナンド7世を幽閉し、無理やり自分の兄をスペイン王に据えました。
ただこれに反対する市民がマドリードで一大蜂起し、主権を回復するための独立戦争が勃発します。
ゴヤの代表作の一つである『マドリード、1808年5月3日』はこの時のマドリードの様子を描いたものなんですよ。
この独立戦争は泥沼化して1814年まで続くのですが、とうとうスペインの市民はナポレオンのフランス軍を退けて主権を回復します。
ただこの混乱に乗じて南アメリカでスペインからの独立戦争が勃発し、スペインは南アメリカの領土をことごとく失うことになります。
この後スペインでは王政が復活しますが1868年から1874年までの間スペインは共和制になります。
そしてその後一度王政が復活したものの第1世界大戦やカタルーニャ地方やバスク地方の独立運動などで不安定な状態が続くことになります。
スペインの現代 フランコの独裁と民主主義の復活
1923年にプリモ・デ・リベラが軍のクーデターを起こし独裁をおこなうものの1930年には失脚し、スペインは第2共和政の時代に入ります。
ただ経済悪化による失業者のデモや農村での反発、さらに右派政党と左派政党の激しい対立などにより議会民主主義はほとんど機能しませんでした。
そんな中北アフリカの領土にいたスペイン軍の将軍フランシスコ・フランコがファシズムを掲げてクーデターを起こします。
そしてこれに対抗した共和党との間で悲惨な内戦が勃発することになりました。
共和党はソビエト連邦やメキシコの支援を受けて最初は検討していたものの、ナチスドイツとファシストイタリアの支援を受けたフランコの勢いは止まらず結局スペインはフランコの独裁下に置かれることになりました。
この内戦でナチスドイツがスペイン北部のゲルニカという町に民間人を対象にした空爆を行いましたが、このニュースをフランスで聞いたピカソが描いたのがあの『ゲルニカ』です。
ピカソは生前自分の亡き後『ゲルニカ』はスペインに所有してほしいと願っていましたが、それはフランコの独裁が終焉してからという条件付きでした。
独裁は1975年にフランコがなくなるまで続きましたが、その後ピカソの願い通り『ゲルニカ』はスペインに渡されました。
フランコは遺言でスペイン王のファン・カルロス1世に権力を渡しましたが、ファン・カルロス1世の希望で立憲君主制の民主主義国家へと生まれ変わります。
そして立憲君主制としてのスペイン憲法が制定された1978年12月6日が現在のスペイン建国の年とされていますよ。
その後1986年にECに加入、その後のEU発足などを経て民主国家としての歩みを着実に積み重ねていっています。
ただ元々小国の集まりだった国の特性は今でも残っていて、現在でもカタルーニャ地方やバスク地方の独立問題を抱えています。
複雑な歴史はスペインの文化にも深い影響を与えている
スペインの歴史を改めて見ていくと、古代から現代まで支配者が次々に変わる複雑な歩みを経て今の国家になっていったことが分かります。
そしてこの複雑な歴史はスペイン文化に深い影響を残しているんですよ。
セゴビアやローマ時代の水道橋がカルタヘナの劇場などスペイン各地にローマ時代の遺産もたくさん残っています。
またスペインの一大観光地であるグラナダのアルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータそれにアンダルシアの白い村などはイスラム時代の遺産ですね。
そして大聖堂などの建設においてもスペインにはイスラム建築とカトリックの建築様式を融合さえたムデハル様式というスペイン独自の建築が用いられていた時期もあります。
トレドの町にはカトリック文化とイスラム文化それにユダヤ文化と3つの文化が融合した町なんですよ。
カトリックの文化を基盤にしながらも神聖ローマ帝国やイスラム文化の影響が所々に見られるのがスペイン文化の特徴ともいえますね。
スペインの文化について詳しく知りたい方はこちらの記事もぜひ見てみてくださいね。

まとめ
スペインの歴史をざっと総ざらいしてきましたがいかがだったでしょうか。
スペインが王国として1つの国にまとまったのが1492年で今の立憲君主制になったのが1978年ということで、何となくまだ新しい国のような感じがしなくもないですね。
ただスペインには旧石器時代の壁画や紀元前に建てられたローマ時代の遺構も残っているので、この土地に蓄積された文化の重みを感じます。
スペインの歴史を知るとスペインの世界遺産への興味と理解がもっと深まりそうですね。
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